この夏の経験から

光延 一郎 SJ
イエズス会社会司牧センター長

イエズス会東アジア大洋州の社会使徒職年次集会

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今年の夏の間、私はいろいろな場所で集まりに参加しました。まず8月18日~22日には、フィリピンのアテネオ・デ・マニラ大学で開催された、イエズス会東アジア大洋州の社会使徒職年次集会へ。今年のテーマは“Social Entrepreneurship (社会的起業)”。つまり、貧しい人々が互恵的なコミュニティをつくって、互いに助け合って生きていくという試みについてでした。東南アジアでは、農村でも、都会の貧しい街でも、武者小路実篤の「新しい村」のようなコミュニティや「村大学」などの学びの場をつくったり、信用組合活動をしたり、端切れで素敵な製品をつくるなどの試みが当たり前に行われていました。
私たちは体験学習として、一日、バスでマニラの隣のAngat県、Bulacanにある“Enchanted Farm”という村やQuezon CityのPayatasという貧しい人々が多く住む地域の女性たちが組織するRags2Riches Cooperativeを訪ねました。そこでアテネオ・デ・マニラ大学の卒業生がサポートして企業を軌道に乗せたり、「村大学」で少年少女が英語を身に着け、将来の準備をしたりしている姿を見てきました。

「起業」といっても、そのめざすところは、たんに利益を得るだけではなく、人々が協力し合って福音的なコミュニティをつくっていくことにあります。人間が幸福になっていくためには、そういう交わりが不可欠なのだとあらためて思います。日本では、市場はすべて大企業にコントロールされきっており、こういう企ての持続可能性には懐疑的な目が向けられがちですが、それぞれの地域で人々と共に地道に活動しているイエズス会員の報告を聞き、また実地見学を通して、“Social Entrepreneurship”は、私のうちで「知らない言葉」から「これこそ希望だ!」に変わってきました。

日本カトリック正義と平和協議会全国集会

次に、9月13日~15日には、福岡で開催された日本カトリック正義と平和協議会の第38回全国集会「2014福岡大会」に参加しました。「いのちを大切にする社会をめざして」とのテーマで、延べ2000人もの人々が集まり、平和と正義についての信仰の視点を養いました。

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初日は、ゲストとして迎えられた韓国のカン・ウィル司教様(済州教区・韓国カトリック司教協議会会長)の基調講演でした。カン司教は初めに、300人もの人々、とくに修学旅行の高校生が犠牲になった4月のフェリー事故で明らかになった、国民の安寧に対する政府の無責任さやずさんな対応について話されました。また日本による植民地化と南北のイデオロギー対立による悲劇の歴史を負い、そして今リゾート地として美しい自然が愛される島であるチェジュ(済州)島に建設されようとしている海軍基地に対して、当地の司教として、自ら反対運動の先頭に立っておられることを話されました。この海軍基地建設には韓国カトリック教会が一体となって反対運動を展開しており、各教区の司祭やシスターが当番で派遣されて村人たちを励ましています。イエズス会韓国管区も、建設工事現場の正面ゲート近くに家を借り、3名の会員が常駐しています。カン司教は、そこから「国家」というものが絶対的存在として神聖視され、人々に犠牲を強いるのが当たり前になっていることに疑問を呈され、キリスト者には、むしろ国家を超えたイエス・キリストの「神の国」を目に見えるようにしていく務めが求められていることを話されました。

福岡での2日目、分科会では、私は佐賀県の玄海原発見学に参加しました。九州電力は、鹿児島の川内原発とともに、この玄海原発の再稼働を画策しているようです。これに対してすでに50年間も原発反対運動を続けている地元・東光寺のご住職、仲秋喜道師のお話をうかがいました。メディアが報じない地元のさまざまな理不尽な出来事についてお話を聞きながら、結局、原発は地域を疲弊させるだけであり、人々の安らかな暮らしとは相いれないものであることをあらためて確認しました。

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これと関連して、今回の正平協全国集会では、2011年11月に発表された日本カトリック司教協議会によるメッセージ『いますぐ原発の廃止を~福島第1原発事故という悲劇的な災害を前にして~』を具体化させるために、「平和のための脱核部会」とカトリック脱原発ネットワークが立ち上げられました。

チェジュ島・カンジョン平和会議・平和大会

最後に9月26日~28日に開催された、当社会司牧センターとは姉妹関係にある韓国イエズス会の人権連帯センター、およびチェジュ教区が主催する、「カンジョン平和会議・平和大会―あなたから平和が始まる」は、たいへん感動させられた集まりでした。2週間前に福岡でお会いしたカン・ウィル司教が、今回はホストです。日本からも谷大二司教が参加され、チェジュ島とよく似た地政にある沖縄の問題について、とくに辺野古や高江での基地反対運動の意味は、平和憲法があるにもかかわらず安保条約と日米行政協定によって米国が日本と沖縄を実質植民地支配している現実、またその構造的差別を脱却することだと語られました。

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また、カトリック信者として、カトリック労働者運動のメンバーでもある、米国の平和活動家ミシェル・オベデ(Michele Naar-Obed)氏が「信仰に基づいた実践行動」について話しました。彼女は、信仰をベースとした自分の体験について「世界の変化を志向する非暴力平和運動とは、常に聖霊において招かれ、聖霊の中を歩む道だ」とし、「平和とは、争いのない状態ではない。葛藤は常にあり、それとたたかい続けねばならないが、その方法が重要である。それを継続させることができる力は信仰から来る。そして、最も切迫して絶望的な状況の中で神に会うことになった」と体験を分かち合ってくれました。

彼女は、武力を背景とする「パックス・アメリカーナ」という状態も、いつかは崩れていくだろうが、そこで重要なのは、崩れたその場に何が建てられるかだと指摘しました。それは、カン司教が言われたイエス・キリストの「神の国」でしょう。その点で、この「カンジョン平和会議・平和大会」では、祈りと語り合い、歌や詩、絵やダンスなど、人間を人間らしくする彩り豊かないのちの力で、軍艦や武器、権力や戦争という灰色の死の力に抵抗している人々の姿がとても印象的でした。海軍基地建設反対のためにたたかっているカンジョン村の人々を慰めるために、若者が結成した可憐なバンドの明るく、さわやかな自作の歌に合わせて、人々がともに歌い、踊り楽しみ、笑うなど、この集いに参加した人々の心の交わりと喜びの中に、私たちは平和を脅かす死の力に打ち勝っていると確信できました。

社会的起業

ビセンテ ボネット SJ
イエズス会社会司牧センタースタッフ

Phillip Cooke神父は、サンタ・クララ大学の科学・技術・社会センターに属するイエズス会の社会的起業家です。彼は、マニラで社会使徒職会議のために集まっていた私たちに、米国からskypeで話してくれました(時差があるため彼は夜中の1時半まで待たなければなりませんでした)。彼は自分のことについて、次のように語っています。「私は教会内で長年、社会使徒職活動を一生懸命してから、貧しい人々が自らの力をさらに強められるように、社会使徒職活動がさらに活気あるもの、力強いものになる方法を探してきました。」

「社会的起業」というのは、かなりの参加者にとって新しい考えだったので、会議において、いくつかの国での具体的な例について聞いたり、またマニラでそのような事業を訪問したりすることは、非常に良い学習の機会になりました。ここで、いくつかを紹介したいと思います。

「貧しい畑主の連帯協会」(カンボジア)

第1のケース・スタディーは、イエズス会サービス・カンボジアの「Ang Snuol 農村開発」(RDAS)が運営する「貧しい畑主の連帯協会」(PFSA)でした。各村のPFSAは、貧しい畑主の少なくても10家族から始めます。この家族グループのねらいは、連帯と一致と責任の意識によって、自分たちと共同体が持続可能な発展をすることです。彼らは、自信と尊厳を取り戻します。

1000リエル(およそ0.25米ドル)の会費によってPFSAの基金をつくって、その基金から農業(種)や小さな事業のためにお金を借りることができます。彼らは、RDASの牛銀行プログラムから牛を借りられるし、収穫が良くない時に備えて自分たちの米銀行プログラムをつくり、悲惨な状態にある人々に緊急支援もします。さらに、村のための小さな図書館や学校の新しい教室というプロジェクトも行います。

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村の米銀行(カンボジア)

現在PFSAは、12のcommune(1つのcommuneは8~10の村で構成)にあり、10,000家族以上がメンバーになっています。カンボジアの代表者は、新しいPFSAを始めるための手順と、communeの代表者との協力についても説明しました。

「繁栄の光信用組合」(インドネシア)

インドネシアの代表者は、第2のケース・スタディーを紹介しました。まずMuhammad Yunus氏を引用して、社会的ビジネスの7つの原則(http://www.muhammadyunus.org/index.php/social-business/social-business)に触れてから、Pelita Sejahtera(繁栄の光)信用組合について説明し、インドネシアの普通の信用組合で除外されている貧しい人々に、どのように財政的なサービスを提供するのかを明らかにしました。
繁栄の光信用組合メンバーは、13%がキリスト者、27%がカトリック、そして60%がイスラム教徒であるので、宗教間の対話にも協力している、と指摘されました。

「イグナイト・ケータリング・サービスとコーヒーショップ」(オーストラリア)

第3のケース・スタディーとして、オーストラリアの代表者は、彼らの「イエズス会社会サービス」のビジョンと、「貧しい人々と連帯して、正義を促進する信仰を表現する」というミッション、そしてその組織を説明してから、「Ignite Catering ServiceとIgnite Cafe」という事業を紹介しました。このような社会的事業は、利益のためではありません。長期失業者のために、訓練と仕事を提供します。「訓練と雇用は、共同体とのかかわりへの決定的な道であることを認識して、技術、同僚との関係作り、指導と仕事の機会を提供する生きた教室である」と言っていました。

2012年から90人がこのプログラムに参加し、60%は雇用されました。その内、会計係1人と配達運転手1人を含む6人は、イエズス会社会サービスで働いています。
「コーヒーをつくるために人を雇うのではなく、人を雇うためにコーヒーをつくるのである」という言葉で説明を結びました。

上記のケース・スタディーの他、マニラとその周辺で、3つの社会的事業を訪れることができました。

「うっとりさせる農場」(フィリピン)

「Gawad Kalinga Enchanted Farm」は、非常に大きな社会的事業です。その基本計画は、農場の周りの村人が貧困状態から脱出できるようにすることです。社会的起業家は、社会的刷新センター(CSI)の下で、小規模な事業を起こしています。そのため、貧しい子どもたちが、社会的起業家になるよう養成する学校もあります。さらに同じ目的で、大学を始める予定をしています。主事であるTony Meloto氏は、アテネオ・デ・マニラ大学の卒業生です。彼は、奨学金で勉強ができたから、恩返ししたいという自らの信念を力強く語りました。また、そこで勉強している若者3人も、社会的起業家になるという、はっきりとした自分たちの決意を伝えてくれました。

「ぼろきれから富」(フィリピン)

「Rags2Riches」は、フィリピンの最も大きなゴミ捨て場であるパヤタスで生活している、貧しい家族を支えるために起こされた社会的事業です。ナナイス(フィリピン語でお母さんたち)は、ゴミ捨て場で拾ったぼろきれで、マットをつくっていました。ほとんどの利益は仲介人にとられていたので、彼女たちは非常に乏しい生活しかできませんでした。2007年から彼女たちは、ぼろきれから、きれいなマットやバッグなどを売る社会的事業のメンバーになりました。自信をもって、彼女たちはマットの作り方を教えてくれた後、私たちはマカティ市にあるその一つの店を訪れました。

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「Rags2Riches」の店(マニラ)

「アース・キッチン・レストラン」(フィリピン)

最後に私たちは、夕食のためにEarth Kitchen Restaurantに行きました。このレストランは、もう一つの社会的事業に属していて、いろいろな有機農業共同体がつくる食品を使っています。夕飯後に、この社会的事業にかかわっている若者二人から、自分たちの体験についての話を聞き、スタディ・ツアーの長い一日が終わりました。

私は、日本では大企業が市場をコントロールしきっているので、社会的起業は不可能に近いと思っていました。しかし、具体的な例についての発表を聞き、マニラとその周辺で社会的事業を見学して、日本でも可能性があるのでは、と考えるようになりました。

【書評】師岡康子著『ヘイト・スピーチとは何か』
岩波書店、2013年

村山 兵衛 SJ(神学生)

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 自民党の「ヘイト・スピーチ(差別的憎悪表現)対策等に関する検討プロジェクトチーム」は、8月の国連人種差別撤廃委員会の勧告を受け、10月15日に、人種差別デモの許可範囲を厳しくすることなど、現行法の範囲での対策を検討するよう、警察庁に求めた。

デモ活動は下火になりつつも、今や書店には中国や韓国を誹謗中傷する様々な本がヒトラー演説や戦争賛美の本と一緒に並べられている。ウェブ上でもヘイト・スピーチは過熱する一方だ。

師岡弁護士の著書は数少ないヘイト・スピーチ批判の一つである。日本での人種差別の現状と法規制の課題について、マイノリティー擁護の立場から冷静かつ辛辣な分析を行っている。
真に考えるべきなのは排外デモの過激さではなく、憎しみを表現の自由ととる見方と政府・国民による戦後一貫した「在日」差別の歴史(p. 25以下参照)である。「法的にも、歴史的にも、差別をなくす責任は第一に日本政府にあり、このような傍観者的態度はゆるされない」(p. 170)。

著者は諸外国の法規制の事例を分析する。景気悪化に伴って移民を敵視する豪州の構図(p. 124参照)などは、今の日本社会と重なって見えるのではないか。

キリストは敵意を殺人にたとえたが、他方で自分の命をかけて、自分を迫害する者を愛し、平和の道を開いた。キリスト者もまた、日本でマイノリティーである。制度面からだけでなく人生をかけて憎しみにうちかつ和解と連帯の道が、いま問われている。

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【報告】正義と平和全国集会2014福岡大会

柳川 朋毅
イエズス会社会司牧センタースタッフ

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第38回目となる「日本カトリック正義と平和全国集会」が、2014年9月13~15日に福岡で開かれました。今回は「いのちを大切にする社会を目指して―見て、聞いて、知って、働く―」というテーマで、三日間を通して様々なプログラムが行われました。この大会の模様を一部ご報告いたします。

大会一日目には、韓国の済州(チェジュ)教区よりお招きした姜禹一(カン・ウイル)司教の基調講演が行われました。姜司教はまず、セウォル号沈没事件や教皇フランシスコの訪韓といった最近の事柄に触れながら、韓国の現代社会が抱えている問題を明らかにしていきました。特に、長年国家によって抑圧され、現在も海軍基地建設問題などで揺れている済州島民の姿に大変心を痛めたこと、当初は多くの悩みや批判もあったものの、この小さき人々の声を黙殺してはいけないと決意し、教会を挙げて基地建設反対運動に取り組んでいるということなどを語られました。

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講演の中では、人類の、そして韓国の暗い歴史についてもお話しくださいました。特に私がショックを受けたのは、四・三事件という済州島で起きた島民虐殺事件や、ベトナム戦争時における韓国軍の残虐行為についての話でした。国家は本来人間のいのちを守るためにあるべきなのに、歴史を振り返ってみればその逆に、国家によって踏みにじられてきた数多くのいのちが存在しています。姜司教はその中で、「国家は絶対的価値を有している」という神話から国家を解き放ち、国家を超えた究極の価値へと目をやることが、キリスト者の預言者としての務めであると語られました。

基調講演の後、高校生平和大使たちによるスピーチが行われました。自分たちは被爆者・戦争体験者から直接に戦争体験を聞くことができる最後の世代であるという意識のもと、戦争の悲惨さと平和の大切さを一人でも多くの人に、特に日本の若者や世界の人々にアピールしようとしている高校生たちの活動を知りました。彼らのような若者たちの姿に、多くの勇気をもらいました。

大会二日目には、主日ミサや神言修道会のマイケル・シーゲル神父の講演会、多くの分科会・現地学習会、ネットワークミーティングが開催されました。
シーゲル神父はミサ中の説教や講演会で、教会のかかわる社会正義について整理してお話しくださいました。旧約聖書の時代から貧しい人、やもめ、みなしご、寄留者という弱者に対する正義が説かれ、キリスト教の初代教会も「一人も貧しい人がいなかった」(使4:34)と語るほどに、弱者への配慮を欠かすことがなかった。教会の社会教説の基本は「人間(生命)の尊厳」、「主体性の尊重」、「連帯」という三本柱である。日本語の「正義」という言葉には上から押しつけられる規範というイメージが含まれているが、英語の「Justice」はjust fit「ピッタリと合う」、つまり神の望まれるその人らしい生き方を目指すというのが元々の意味である。といったお話をされました。
「憲法9条にノーベル平和賞を」の推薦人の一人でもあるシーゲル神父は、戦争と平和についても語られました。軍拡競争はまるでアルコールなどへの依存症のように、際限なく膨らんでいきます。平和を目指すためには抑止論という恐怖の連鎖ではなく、むしろ和解による信頼関係を構築する必要があるのだと説明されました。

全部で10以上催された分科会・現地学習会のうち、私は「キリスト者として働くこと」という分科会に参加しました。福岡の西新教会の青年たちを中心としたグループが、現代の若者たちが働くことに関して抱えている悩みを劇の形で紹介してくれました。また、信者の意識を世代別にまとめたアンケートの結果も報告され、その後いくつかの小グループに分かれて「働くこと」についての分かち合いが行われました。

夜には、死刑問題や憲法問題などを話し合ういくつかのネットワークミーティングが開かれました。私は今回設立された「平和のための脱核部会」の集いに参加しました。脱核運動に携わっている方々のお話や福島の現状報告を聞いて、改めて原発・核兵器のない社会の実現に向けて連帯していく重要性を感じました。

大会三日目には、今大会を締めくくる「いのちを大切にする社会とは」というテーマでシンポジウムが開かれました。福岡教区の森山信三神父の司会のもと、京都教区の大塚喜直司教と、長年福岡でホームレス支援に携わってこられた奥田知志牧師の対談形式で行われました。

フランシスコ教皇の使徒的勧告『福音の喜び』を出発点に、教会は汚れ、傷つくことを恐れずに、もっと外へと出ていかなければいけないという共通意見からシンポジウムはスタートしました。奥田牧師は、昨今やたらと叫ばれている「自己責任論」の裏側には、自分が傷つくことを恐れる精神構造があるのだと説明します。「キズナ」を結ぶためには「キズ」つくことを避けては通れない。社会というのは「健全に傷つく仕組み」であり、一人の人の傷をみんなが分担することなのだという話をされました。
第二バチカン公会議後、カトリック教会は確かに外へと開かれましたが、まだまだ自分が変わることを恐れ、自分は豊かなままで弱者を救おうとしています。「他人を救ったのに自分は救えない」とバカにされた十字架上のイエスのように、教会自体ももっと貧しくならなければならない、人が到底まねできないような尊敬される「アホ」にならなければならないという結論で締めくくられました。

次回の第39回大会は、2015年9月21~23日に東京で開催されます。